【比較画像】阿部寛 若い頃はイケメンでさわやか青年→濃い顔へ

阿部寛 若い頃 顔が変わった

阿部寛さんはモデル出身のイケメン俳優でいらっしゃいますが、一時あまりお仕事に恵まれない時期もあったそうです。順調なばかりではなかった俳優人生が、人間味のある存在感となり今、いぶし銀のような輝きを放っています。

お若い頃の阿部寛さんの苦労話を知ると、その経験こそが今の阿部寛さんを作っている、と思えます。そして、私ももう少し頑張ってみよう!という気持ちになってきます。

今もかっこいい阿部寛さん若い頃を調べてみました。

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メンズノンノのモデルとして(画像あり)

阿部寛さんは中央大学理工学部に在学中にメンズノンノのモデルに応募し、集英社第3回ノンノボーイフレンド大賞を受賞。その後3年半の間表紙を飾り続けました。

現在の阿部寛さんは渋みがあってとても素敵ですが、お若い頃は爽やかなイケメンで、今メンズノンノの表紙の画像を見てもこれ以上かっこいいアイドルを探すのは大変!と思います。

阿部寛若い頃メンズノンノモデル

今、阿部寛さんの若い頃を振り返ると、メンズノンノのモデル、ということが注目されますが、当時は中央大学理工学部の学生でした。これは学力的にもスゴイ事で特に阿部寛さんが卒業した<電気電子情報通信工学科>は今はITで注目されるようになった学科です。当時はまだ地味なイメージがあった学科かもしれませんが、難関であることは当時も同じです。阿部寛さんは若い頃、イケメンだけでなく成績も良かったのです。中央大学でもきっと目立つほどのイケメンの学生でしたでしょうね。今のようにミス○○とかミスター○○とか、各大学で当時は無かったのでしょうけれど、有ったとしたら間違いなく「ミスター中央大学」として有名になったと思います。

もし、モデルから俳優、という道を歩まなくてもどこかで芸能界にお誘いが来そうですが・・・そのまま普通に就職していたらさぞやモテモテのエンジニアになっていたことでしょう。

阿部寛 若い頃

そういえば、以前「下町ロケット」にエンジニアとして出演したことがありました。その時私は、阿部寛さんが若い頃そういう勉強をしていてエンジニアを目指していたとは知りませんでしたが、はまり役だな~と思いながら見ていました。もしかしたら阿部寛さんは演じながら、若い頃を思い出し、もしかしたらこういう道だったのかもしれない・・・という思いを抱きながらの撮影だったのでは?なんて想像します。

 

若い頃の阿部寛は就活をしていた時もあった!

お若い頃の阿部寛さんはそのままモデルとしての仕事を続けるか、あるいは普通に就職するか迷って、企業に就活をした時期もあったそうです。でもその頃はもうメンズノンノのモデルとして有名になったいたため、面接のときに「なぜ君のような人が一般企業に就職しようとするのか」といぶかしがられて終わってしまったそうです。

面接でそれを言うならば、書類選考の段階で落とせばよいのにわざわざ呼んでおいてそれはないでしょう・・とも思いますが。もしかしたら、「あの阿部寛が面接に申し込んできたよ!面白いから会ってみるか!」なんてことで書類を通していたりして・・・。

今実はわたくしの息子が就活をしているのですが、それこそ一社受けるごとに消耗しているのがわかります。

モデルとして名が売れている阿部寛さんが就活をするのはどれだけ大変だっただろうか、と母の気持ちになると切ないです。

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若い頃の阿部寛はモデルの後はパチプロになった!

 

モデル時代 若い頃の阿部寛に一か月4000通のファンレターが届いた

若い頃の阿部寛さんは1986年からメンズノンノの表紙のモデルを創刊から43号まで連続で飾りました。その連続43号、という記録はなんとギネスの記録にもなっているそうです。押しも押されもしなトップモデルになったのです。若い頃のご自身を振り返って、阿部寛さんは

「当時は王子様扱い」で

一か月に4000通のファンレターが届いた

そうです。話はそれますが、ファンレター、って古いですよね。多分・・。今の若い人達も書くのかしら?ツイッターとか?インスタとか?でファンです、ってつぶやくのかしら。

 

ハイカラさんが通るで映画俳優デビューするも・・・

阿部寛さんはモデルをしながら中央大学理工学部を卒業した後、就活をしたものの一般企業には就職をせず、俳優への道を歩み始めました。

1987年に映画『はいからさんが通る』で俳優デビューを果たしたのです。

阿部寛 ハイカラさんが通る

お若い頃の阿部寛さんはなんて笑顔がさわやかなんでしょう!

今でこそモデル出身の俳優や女優さんは沢山いらしてしかも憧れの対象ですが、当時は「モデルあがり」というと下に見られる雰囲気があったそうです。しかも、阿部寛さんは実は活舌が良くないのです。その活舌の悪さは今の阿部寛さんご自身がネタにするほどですが、お若い頃の阿部寛さんはそこまで人間が練れていなかったでしょうから大変だったかもしれませんね。

そしてこの「ハイカラさんが通る」以降、阿部寛さんは189㎝という高身長があだとなって不遇の時代を送ることになるのです。

ちなみに、お若い頃の阿部寛さんは活舌が悪いだけでなくセリフが棒読みだったそうです。そのことは最近鶴瓶さんが

阿部寛は『はいからさんが通る』で演じた“伊集院忍少尉”の時は『セリフが棒読みやった。でもそれからいい役者にならはった』

と指摘されたほどです。

阿部寛 ハイカラさんが通る

しかし、時代と言うものは不思議なもので、後年この阿部寛さんが俳優として認められるようになるとこの活舌の悪さが阿部寛さんの持ち味となり

滑舌という技術より、熱い思いのほうが、人に何かを伝える時には大事であるということを、阿部は「下町ロケット』の航平のセリフを使って教えてくれている

と言われるまでになったのです。

阿部寛さんは誠実なお人柄ですので、どの役にもそのお人柄がにじみ出るのだと思います。人柄は隠せませんものね。

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俳優の仕事がなくなった無職の阿部寛

お若い頃の阿部寛さんは「はいからさんが通る」以降、イケメンのモデル出身の俳優というイメージから、仕事は

「フェラーリで乗り付けるような二枚目の役」

しか来なくなったそうです。それはすなわち仕事の幅がどんどん狭まっていくことを意味していました。そもそも、”フェラーリで乗りつけるような二枚目”が登場するドラマの方が少ないですよね。

また、阿部寛さんが身長が高すぎるため、お相手の女優さんとのツーショットが撮りにくい、と理由も仕事が減った一因でした。

ちなみに下の写真は阿部寛(189㎝)さんと深津絵里(156㎝)さんのツーショットです↓確かにこれではツーショットを撮影しにくいですね。ちなみに深津絵里さんはハイヒールを履いていらっしゃいますね。

そしてもしかしたら、これは私の推測ですが共演する男優も、阿部寛さんが隣にいるとご自身が小さく見えてしまうため、共演を嫌がる俳優さんも多かったのではないでしょうか。

阿部寛さんは、お若い頃のご自身を振り返って次のようにおっしゃっています。

あの頃は今と違って、モデルから俳優になる例はあまりなかったようです。そこに、雑誌で名前ばかり売れたオレが現れた。芸能界にとってはハヤリものですよね。(中略)でも、役柄といえば、典型的な二枚目ばかりで、役の幅がまったく広がっていかなくて、悩みました

 

若い頃の阿部寛

そしてついには仕事がなくなり、パチンコで生計を立てるようになったのです。若い頃の阿部寛さんのいわゆる「パチプロ」の生活は3年に及んだといいます。

パチプロだった若い頃の阿部寛

お若い頃の阿部寛さんはモデルや俳優の仕事がなくなり、パチンコで生計を立てるようになったのですが、当時はいったいどれくらいパチンコで稼いだ?のでしょうか?

なんと月に15万円稼いでいたそうです。

でも、パチンコはギャンブルですから当然負けることがあります。その金額も気になります。なんと多いときでスロットで一日25万円を失ったことがあったそうです。その金額は阿部寛さんがお若い頃の金額ですから、物価上昇率を考えると今の金額に直すとその1.5~2倍近い価値があったのではないでしょうか。

私はパチンコをしたことが無いのでわからないのですが、パチンコには玉が出やすい台と出にくい台があるようで、よく玉が出る台を選ぶにはコツがあるようで、阿部寛さんは若い頃からそれを熟知していらっしゃいました。若い頃阿部寛さんがパチンコの台を選ぶのに気を付けたポイントは

完全に釘ですね。特に道とヘソ。それと止め打ちができたんで…。

お若い頃はパチプロの生活だったわけですから、それこそ朝から並んで一生懸命?パチンコをしていたのでしょうね。もし、今パチンコをやったら勝てますか?というインタビューには

「パチスロは無理だけど、パチンコなら今でも同じくらいイク(稼げる)んじゃないですかね」

と答えていらっしゃいます。でも、いまは朝からパチンコに行くとそれは「仕事」になってしまうので、いまは朝から行く、と言うことはしないそうです(当然💦)。

それにしても、パチンコで生計をたてていたころはお若かったからあまり悲壮感はなかったかもしれませんが、焦燥感というものは相当あったと思います。メンズノンノの表紙を連続43号も飾り、俳優にデビューすれば、王子様扱い。稼いだ金額も並外れた金額だったはずです。その当時を思いながらのパチプロ生活は相当つらいものがあっただろうと推測できます。

想像するに身長が高い阿部寛さんはパチンコ屋さんでも相当目立っていたのではないでしょうか。なんたってお若い頃の阿部寛さんはこんなにイケメンですから↓

そんな阿部寛さんをご覧になったご両親のお気持ちは随分と心配でつらいものがお有りでしたでしょうね。

若い頃の阿部寛は数億の借金があった

そして当時はまさにバブル絶世期。お若い阿部寛さんは知人に紹介された不動産投機に手を出してします。当時は今と違って借金をするのも簡単でした。銀行側が「どうぞ借りてください」と言いに来る時代です。若い阿部寛さんは高額なマンションを購入、ローンを組んでしまいます。その金額は数億、とも言われています。

やがてバブル崩壊。たとえマンションを売ったとしても、ローンの残金が数億も残るという状態です。そうして阿部寛さんは20代で数億の借金を背負うことになったのです。

その後2007年、阿部寛さん43歳の時にこの数億円の借金を完済したというお話が阿部寛さんご自身からありました。借金を返済するまでにかかった年月は20年!

若い頃の阿部寛んさんは借金返済のために働いていた!?ともいえるかもしれませんね。でも、たとえ20年かかったとしても数億円の借金が返済できる稼ぎ、というものは素晴らしいですね!

若い頃の阿部寛がパチプロを辞めて俳優へ復活したきっかけ

その阿部寛さんにあるとき、取材にオファーが来ました!それはバラエティー番組『あの人は今!?』(日本テレビ系)です。わたしもこの番組が好きで、よく見ましたが、芸能界などで一時、大活躍した人が気が付くといなくなっている。一体彼は今どこで何をしているのか、を追うのですが、へ~!と驚くことがよくあります。

でも普通は、ここで終わると思うのですよね。でも阿部寛さんは違いました。そこから一年奮起したのです。幸いしたのは、阿部寛さんがまだお若いことだと思います。その時阿部寛さんはまだ26歳くらいです。人生を諦めるには早すぎます。

チロルの挽歌

1992年NHKドラマ『チロルの挽歌』に出演を希望し採用されました。このときの主演は高倉健さんで、阿部寛さんについた役は名前もない端役。セリフは「電話です」の一言だったといいます。それでもその役を希望したのは高倉健さんから何か小さなことでも良いから得ようとした心構えでした。

そのドラマの撮影で高倉健さんはたった一言しかセリフのない阿部寛さんをエキストラと思いこんだそうです。そして「よろしくお願いします」の一言だけしか挨拶をしなかったのですが、のちに阿部寛さんが役者であることを知って役者の先輩としての挨拶をしなかったことを詫び、励ましの言葉を送ったということです。

若い頃の阿部寛さんは高倉健さんに憧れ、そして尊敬していたそうなので、高倉健さんから直接言葉をもらったときは嬉しかったでしょうね!きっと、その時の高倉健さんの励ましの言葉と「いつか共演しよう」と言う言葉は、阿部寛さんがどん底から這い上がるためのモチベーションだったのだと思います。また、話は核心からは外れますが、高倉健さんも本当に素晴らしいお人柄ですね。

このドラマで阿部寛さんが高倉健さんと出会えたことは本当にラッキーだった!と阿部寛さんの親になった気持ちで運命に感謝しています。

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『熱海殺人事件 モンテカルロ・イルージョン』

そうして俳優にカムバックした阿部寛さんは1993年舞台『熱海殺人事件 モンテカルロ・イルージョン』でバイセクシュアルの部長刑事役で主演を演じ、見事に復活したのです。

紆余曲折がありましたが、このとき阿部寛さんはまだ29歳の若さです。舞台のポスターを見るとすごみのある若い頃の阿部寛さんが写っていますね。

俳優復活へかける意気込みのようなものが伝わってくるようです。

若い頃の阿部寛の主な出演作品

 

1994年「凶銃ルガーP08」

その後は1994年「凶銃ルガーP08」で日本映画プロフェッショナル大賞・特別賞を受賞。

 

1995年のNHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』

1995年のNHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』で有能な老中松平乗邑。では初めての時代劇で好評を博しました。阿部寛さんはハーフ顔と思っていましたが、時代劇もお似合いですね。

 

2000年 「TRICK」で再ブレイクした阿部寛

2000年には仲間由紀恵さんと共演した『TRICK』では阿部寛さんは再ブレイクのキッカケとなりました。

「TRICK」の中で阿部寛さんはご自身のお若きい頃のモデル時代の写真を自虐ネタとして使って三枚目の役を演じ新たな境地を開いたと言われています。この「TRICK」の上田次郎役役が、それまでの阿部寛さんのイメージを変え役の幅がぐっと広がった出世作品となりました。

これだけのイケメンが三枚目も演ずることができたら鬼に金棒ですね!

2005年「ドラゴン桜」の阿部寛

ドラゴン桜 阿部寛

 

ドラゴン桜は、元暴走族の貧乏弁護士が平均偏差値36の高校生を東京大学に現役合格させるまでを描いドラマで、原作は漫画でした。ドラゴン桜は人気のドラマでしたのでご覧になったかたも多かったのではないでしょうか?私も大好きなドラマで毎週欠かさず、楽しみに見ていました。私の脳内では主人公の「桜木建二=阿部寛」の図式が固まっていたほど、若い頃の阿部寛さんにはまり役だった、と思います。

その阿部寛さんが桜木建二役でおっしゃった言葉にぐっとくるものがあります。

入学試験の問題にはな、正解は常に一つしかない。その一つにたどり着けなかったら不合格。これは厳しいもんだ。だがな、人生は違う。人生には、正解はいくつもある。大学に進学するのも正解。行かないのも正解だ。

スポーツに夢中になるのも、音楽に夢中になるのも、友達ととことん遊び尽くすのも、そして、誰かのためにあえて遠回りするのも。これは全て正解だ。だからよ、お前ら生きることに臆病になるな!

矢島。水野。緒方。小林。香坂。奥野。お前ら自分の可能性を否定するなよ!受かったヤツも、そして落ちたヤツもだ。お前ら胸を張って堂々と生きろ!

 

私は阿部寛さんが(本当は桜木先生ですが)言った

人生には、正解はいくつもある。

と言う言葉が大好きです。この言葉を聞いたとき「私の人生も正解じゃん!」と思えたのです。そしてこのセリフは誠実なお人柄の阿部寛さんがおっしゃったからこそ、こちらの胸にぐっとくるものがあるのだと思います。

この名台詞を残した桜木建二先生が2021年「ドラゴン桜2」として帰ってきます!阿部寛さんがまたどんな桜木先生をみせてくださるとても楽しみです。

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2009年「天地人」

2009年「天地人」では重要な役を演じました。このとき、阿部寛さんは45歳。お若い頃は爽やかなイケメンでしたが、このころは渋みも加わってなお素敵にですね。

 

2012年 映画『テルマエ・ロマエ』

『テルマエ・ロマエ』は、古代ローマ帝国の浴場設計技師ルシウスは、生真面目すぎる性格が時代の変化に合わず、職を失ってしまいます。落ち込む彼は友人に誘われて訪れた公衆浴場で、突然現代日本の銭湯にタイムスリップしてしまう、という楽しい映画です。

お相撲さんに囲まれた阿部寛がお相撲さんよりも背が高くて筋肉がムキムキなのがすごい!ですね。この作品では阿部寛さんは古代ローマ人の役なのですが、本当にローマ人に見えてくる堀の深いお顔が素敵!

 

2015年 下町ロケット

阿部寛 下町ロケット

下町ロケットは

宇宙科学開発機構の研究員だった佃航平が、死んだ父の経営していた中小企業「佃製作所」の社長となり、社員たちと共に奮闘する姿を描く。

というドラマで、その研究員を演じた阿部寛さんの誠実な姿に人気が沸騰しました。阿部寛さんは中央大学理工学部の電気電子工学科卒業ですから、研究員、というこの役に拘りがあったのではないかと思います。

また身長189cmの阿部寛さんと、183㎝の吉川晃司さんが並んで歩く姿は迫力があった、と話題になりました。

まとめ

阿部寛さんの若い頃を、作品の画像を時系列で振り返りながら見てきました。

阿部寛さんは大学生時代にモデルとして活躍したものの、高身長が原因でお仕事が減ってしまいました。そしてついにはパチプロで生計をたてるようになったのです。これではダメだと奮起したきっかけは「あの人は今」というTV番組でした。

それからは努力を重ね主演俳優として活躍するようになりました。

その誠実なお人柄が佇まいに表れていてとても素敵です。これからも素敵な作品を私たちに届けて下さいね。

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