ロック歌手の矢沢永吉さんの名前は、ロックに関心の無い人でも知っている、というくらいのBIGなアーティストです。
私よりも世代が上の方なので、リアルタイムで矢沢さんの人生を見ていないのですが、ちょっと調べてみたら、かなり劇的人生!
調べていくうちに、矢沢永吉という一人の人間のスゴサに唸るばかりです。
今、世の中が大変なことになっていますが、矢沢永吉さんの人生にちょっと触れてみるとなんだか元気が出てきます。
まずは、矢沢永吉さんお生い立ちについて調べてみました。
幼少時代
矢沢永吉さんは1949年9月14日生まれ、広島市の出身です。
元々、実家は裕福だったようで大きな自転車屋さんを営んで丁稚奉公の若い衆6,7人を抱える商いをしていました。
ところが、1945年(昭和20年)8月6日広島に原爆が投下され矢沢家の生活は一変してしまいます。
矢沢永吉さんのお父さんも被爆しました。
その後遺症がつらかったのか、その後はいつも酔っているような状態だったようです。
そんな生活に耐えかねてか、矢沢永吉さんのお母さんは栄吉さんが3歳の時に蒸発してしまいました。
そして矢沢永吉さんが小学校2年生の時にお父さんが虹の橋を渡られました。
母は蒸発、父は他界。
矢沢永吉さんは親戚の家に引き取られることになったのですが、親戚をたらいまわしにされました。
その後は父方の祖母が矢沢永吉さんを引き取り、長屋での貧しい暮らしが始まり、高校を卒業するまで続きました。
小学生時代はいつも空腹で、友人と何かが違っていて、その「何か」の原因が「貧乏であること」だということに小学4年生のころに気が付いたそうです。
野球をやりたくてもグローブを買えない。
海水パンツも買えない。
楽しみは近所の川で裸で泳ぐことだったとか。
「お前の家は貧乏でケーキなんか買えないだろう」と顔にケーキの一部を投げつけられるようなこともあったそうです。
このころから、『絶対にBIGになってやる』との考えるようになりました。
中学生時代 音楽との出会い
矢沢永吉さんが中学2年生の時「音楽」と出会いました。
ラジオで「ヒット・ポップ』を聞いたときです。
その後、エレキサウンドに夢中になり、学校をさぼってエレキコンテストを見に行ったりエレキを持っている友人の家に入り浸ったり。
そのエレキに対する「熱」は異常なほどだったらしいです。
では、将来の夢は「音楽」で名をあげることになったか、というとこの段階ではそうはならなかったようです。
高校生時代
高校生の時矢沢永吉さんはデール・カーネギー著の校生の『人を動かす』という本に出合います。
この本は自己啓発書の元祖ともいわれ、今でも本屋さんに行くと平積みされています。
私も、若かりし頃、読みました!
矢沢永吉さんもこの『人を動かす』を10回は繰り返し読んだといいます。
この本を矢沢永吉さんに渡した人は裸一貫からキャバレーを経営しているビジネスマンだったそうです。
高校一年生の時の夢は「板金屋さんになる」だったと聞き驚くのは私だけではないと思います。
板金屋さんが勿論悪いとは言いません。
ただ矢沢永吉さんの仕事ではなかったですね。
ロックを選んでよかった!と今なら思えますが、ここからもまた紆余曲折があるのですが・・・。
取り合えず高校を卒業すると、夜汽車で上京。
途中横浜で降り、そこから矢沢永吉さんのロックによる「成り上がり」の人生が始まったのです。
1968年、横浜中華街でバイトをしながらバンド活動を始めます。
そして1972年に「キャロル」を結成。
ついに矢沢永吉さんの1STシングル「ルイジアナ」でデビューしたのです。