【画像】薬師丸ひろ子の若い頃 13~20歳までの輪郭や髪型変篇 !

顔が変わった

朝ドラのおかあさん役で大活躍の薬師丸ひろ子さん。薬師丸ひろ子さんが出る回は、主役を彼女が持って行くというほどの存在感があります。

それもそのはず、薬師丸ひろ子さんは若い頃は銀幕のスターでありアイドルでもありました。

角川春樹さんに発掘され高倉健さんもその実力を認めたという稀有な存在の女優さんなのです。

今の若い世代のかたはご存知ないかもしれませんが、薬師丸ひろ子さんの若い頃はメッチャかわいいです!若い頃の写真を見ると、DVDで当時の作品を見たくります。
では薬師丸ひろ子さんの極若い頃(13歳から20歳)までの作品を見てみましょう。

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銀幕のスターとして

デビュー作 映画「野性の証明」で高倉健さんと共演

薬師丸ひろ子さんの将来性を見抜いたのは角川春樹氏

「野性の証明」のオーディションに合格したことで薬師丸ひろ子さんの女優としての人生が始まりました。

このオーディションは、薬師丸ひろ子さんの写真を撮った人が本人には内緒で勝手に応募したものでした。薬師丸ひろ子さんは絶対に受からないと思っていたにも関わらず、合格!
この時のオーディションでは業界を全く未経験の薬師丸ひろ子に難色を示す人もいたようですが、角川春樹氏の強い意向で薬師丸ひろ子さんが合格したと言われています。角川春樹氏は、薬師丸ひろ子さんのに惹かれ、その将来性を見抜いたと言われています。

確かに大きくて黒目が勝った瞳が印象的です。

そして結果的にこの「野性の証明」は角川映画として初めて邦画年間興行ランキング1位になり、角川春樹氏の目論見は見事に的中したのです。

高倉健との共演

この「野性の証明」で薬師丸ひろ子さんは俳優の高倉健さんに初めて会った時、高倉健さんが手を差し出して「よろしくお願いします」と言ったそうです。そのことに感激した薬師丸ひろ子さんにとって高倉健さんは、その後大きな影響を与える存在になりました。

<「野性の証明」1978年 薬師丸ひろ子13歳>

「野性の証明」の撮影の時に高倉健さんから薬師丸ひろ子さんは「チャラチャラするなよ」と言われました。この一言がこの13歳の時から40年以上たつ今もなお薬師丸ひろ子さんの原点になっているそうです。

それを知ると、薬師丸ひろ子さんに浮ついた感じがしないのは、高倉健さんの教えと影響があるのだとなんとなく納得します。

引退出来なくなった薬師丸ひろ子さん

TVドラマ「装いの街」に出演

なんと薬師丸ひろ子さんはこの「野性の証明」一作で引退するつもりだったそうです。もともと

他人が勝手に応募したオーディションですものね・・・。

が、「野性の証明」が大ヒットし、その主演女優を世が引退させるはずが有りません。

単発ドラマ「装いの街」に出演。

<「装いの街」1979年>

薬師丸ひろ子さんは「辞めたい、やめたい」と言っていたそうですが、周囲が引き留めていました。でも「本気で辞めたくなったらやめさせてあげるからね」という言葉もかけてもらったとか。

 

ポスターやちらしの仕事

薬師丸ひろ子さんさんが中学3年生の時 受験のため活動休止していましたが、角川文庫「時間がないんだ青春は」のキャンペーンのポスターやチラシの仕事だけはしていたそうです。

<時間がないんだ青春は>

この時右目の下にあったホクロがいつの間にかなくなったと後にメディアで騒がれていますた。

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『翔んだカップル』への出演

薬師丸ひろ子さんは学校を休まなけれないけないような仕事は全部断っていました。あくまでも学生であることが薬師丸さんの本業なのです。その理由から『翔んだカップル』もずっと断り続けていましたが高倉健さんの説得で出演することになりました。高倉健さんの言葉は薬師丸ひろ子さんにとって絶対なのですね!

<「跳んだカップル」1979年>

薬師丸ひろ子を映画界の青春スターにした『セーラー服と機関銃』

この映画に関しては薬師丸ひろ子さんが角川春樹事務所を説得して撮影が開始されたと言われています。

映画の1シーンで薬師丸ひろ子さんが機関銃を乱射する場面があるのですが、この時小道具の瓶が割れてしまいました。そしてその破片が薬師丸ひろ子さんの左ほおに当たり1㎝もの傷を作ってしまいます。当然出血したのですが、撮影はそのまま続行。その時撮影されたシーンは映画の中でもそのまま使われました。

『セーラー服と機関銃』1981年

この写真は、当時あちこちで見かけましたが、左ほおの傷は演出だとずっと思っていたので、本当に怪我をしてしまったのだと聞いて驚きました。

当時お医者さまからは傷が残ると断言されていたそうで、それはかわいそうに・・・と思うと同時に、まだ目とかに直撃しなくて良かった、とも思います。女優さんの仕事は過酷で危険なこともあるのですね。

そして、この『セーラー服と機関銃』の舞台挨拶が大阪で予定されていましたが、1万人のファンが殺到したためその鎮静のために放水車を伴う機動隊が出動する騒ぎになりました。

翌日の朝日新聞の一面に、朝日新聞の一面ですよ!!!「機動隊と機関銃」という見出しの記事が掲載されました!!

かつて、そこまでファンが押しかけて騒ぎになったことがこの日本であったでしょうか?

今はおかあさん役の薬師丸ひろ子さんのお若い頃には、まるで作り話のように聞こえるエピソードがあるのです。

『探偵物語』で松田優作と共演

薬師丸ひろ子さんはアイドルの絶頂期に有りながら大学受験のために休業をしていましたが、その復帰作として撮影されたのが『探偵物語』です。

『探偵物語』1983年

この映画薬師丸ひろ子さんの角川映画の中で最高の興行成績を残すことになります。

松田優作さんも素敵でしたね~。ちなみに俳優の松田龍平さん、松田翔太さんの父親は松田優作さんです。

薬師丸ひろ子さんの代表作「Wの悲劇」

1984年12月公開に公開された『Wの悲劇』でブルーリボン主演女優賞を受賞。薬師丸ひろ子さんの代表作と言われます。

『Wの悲劇』1984年

この時の舞台挨拶では、この撮影が終わったらやめようかと思っていたけれど賞をもらったのはもっと頑張るようにということと考えます、という内容のスピーチをしました。

そして1985年角川春樹事務所をから独立することになります。

歌手として

歌わないアイドルが歌った!

歌わないアイドル、と言われていた薬師丸ひろ子さんは『セーラー服と機関銃』の主題歌を歌うことで同世代のアイドルにもなりました。

そして「セーラー服と機関銃」・「探偵物語」・「Woman “Wの悲劇”より」はオリコン1位を獲得しました。

薬師丸ひろ子さんご自身は歌手になったことについてつぎのように語られています。

「探偵物語」で作詞家の松本隆や作曲家の大瀧詠一に出会ったことで、歌うことやアルバム作りの楽しさを知り、今後も歌い続けたいと思った

 

今回、薬師丸ひろ子さんを調べてみて分かったのですが、女優になったきっかけも自ら進んでなったわけではなくそれゆえいつも辞めたいと考えていました。これは私の想像なのですが・・・一作品撮るごとに「これが終ったら女優を辞めよう!」と心底考えていたのではないでしょうか。それゆえ、最後だと思うから全力を尽くすことが出来、そのことが結果的に次へつながった、と思えます。

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