美輪明宏さんがTVに出演するとその圧倒的な存在感で視聴率があがるそうです。
確かに、あのゴージャスで端正な佇まいは、人を引き付けてやまないものが有りますものね。
美輪明宏さんのお若い頃のお顔はハーフ顔で本当にイケメンでした。
お若い頃の画像と共に、「歌手 美輪明宏」さんの半生を振り返りたいと思います。
幼いころから才能を認められた
引用元 こいもうさぎのブログ (koimousagi.com)
小学生の頃、映画「僕の父さん」ので加賀美一郎さんが歌うボーイソプラノに感動した美輪さんは、何度もその映画を見てその歌をすっかり覚えてしまったそうです。
そして小学校の廊下で歌っていた美輪さんの歌を聴いた先生が、お父さんに三輪さんの歌に才能が有るということを伝えて、三輪さんはピアノと声楽を習い始めました。
中学生の時シャンソンを独学で勉強し始める
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美輪明宏さんの若い頃のお写真。
こういうのを「息をのむ美しさ」というのだと思います。(偉そうにすみません) pic.twitter.com/3sag8oMy3d— いあほ🐟漁師です (@ykkr_iaho0923) August 11, 2021
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美輪さんは創立者がフランス人宣教師で、フランス色の濃い海星中学に進学しました。ここで美輪さんはフランス語を学ぶことになったのです。そしてある日耳にした曲がフランスのシャンソンだということを知り、これこそが自分が子供の頃に聞いた曲!と分かり、その日から美輪さんはシャンソンの勉強を始めました。
プロとしての始まり
ハウル見てて荒地の魔女といえば美輪明宏〜と思って調べたら若い頃の写真がトップに出てきてびびった。何この美形。#ハウルの動く城 pic.twitter.com/GbeTd40LxX
— ぷる (@c_s_kbp) April 2, 2021
しかし、お父様の稼業の金融業が倒産し国立音楽高等学校(現・国立音楽大学附属高等学校)を中退することを余儀なくされていました。
その後は新宿駅で寝泊まりをしていましたが、偶然出会った高校の先輩に「君、ジャズを歌えるか?」と誘われ15歳の時進駐軍のキャンプでジャズを歌いギャラを稼いぐようになりました。
この時のことを、美輪さんご自身が「プロの歌手としての始まり」だったと後に語られています。
銀巴里で歌手としてデビュー
若い頃の美輪明宏 本当に美しい… pic.twitter.com/UHbaLBRWpI
— 魔裁さと@固ツイ (@GAMIiiiiaaaaaA) November 5, 2021
その後、美輪さんの歌を認めてくれた宝塚歌劇団出身の橘薫さんに紹介された、銀座に当時あったシャンソン喫茶「銀巴里」に向かうのでした。
そして「銀巴里」の「美少年募集」の貼り紙を見て応募し見事合格。銀巴里と専属契約を結ぶようになりました。若い頃の美輪さんの写真を見ると本当に美少年でいらっしゃるので、それは当然!と思ったりします。
そうして美輪明宏さんは歌手としてデビューしたのです。美輪明宏さん17歳の時でした。
その時交流が有ったのは三島由紀夫をはじめ時代をけん引する錚々たる文化人たちです。
フランスのシャンソン「メケメケ」が大ヒット
若い頃の美輪明宏さん
リアルJOJOww
イケメンすぎるやろ😍#ジョジョの奇妙な冒険 pic.twitter.com/8fzibp9Lx5— コウイチ大喜利修行中 (@hibiki1428) January 23, 2022
そして、美輪さんは、
1957年、22歳の時、フランスのシャンソン「メケメケ」を、日本語で歌い大ヒットします。
後に三島由紀夫さんが「天上界の美」と絶賛した美貌でみるみるうちにに人気が出て、「シスターボーイ」として有名になりました。
「神武以来の美少年」ともてはやされたのもこのころです。
不遇の時代
しかしその人気は長く続かず、美輪さんが後に「人様の情けに生かされた」と語るほどの不遇に身を置くことになります。
それはご自身の本音を公表したこと、そして美輪さんの訳したシャンソンの歌詞が世間に受け入れられなかったことが原因しています。
当時は保守的な時代だったのです。
昭和43年の丸山(現・美輪)明宏(左)と、三島由紀夫(右)。三島が戯曲を書いた、丸山の舞台「黒蜥蜴」の
打ち上げパーティーで。 pic.twitter.com/jKniuK6Yem— オダブツのジョー (@odanii0414) August 18, 2017
あれほどもてはやされた時代の寵児が一転「男の腐ったみたいな~~ボーイ」とののしられ、道を歩くと石まで投げられるようになってしまいました。
炭鉱の町でできた「ヨイトマケの唄」が大ヒット
いつ見返しても若い頃の美輪明宏も美青年過ぎて好き… pic.twitter.com/BSZ9no0Vqd
— ゆいかま@マジLove信徒 (@yuikanma) August 26, 2021
そんな時、美輪さんは九州の炭鉱町に地方営公演に行ったそうです。その時ヒラヒラした服を着たご自身と炭鉱の仕事で炭塵が染み込んで真っ黒なお客さんの姿を見比べ、これでは申し訳ないと、地味な服装に変え、彼らの労働を励ますような歌詞で作詞作曲をして歌うようになりました。
しかし、そうすることによって美輪さんはマスコミから全く相手にされなくなってしまったのです。
それでも美輪さんは労働歌や反戦歌を歌い続けました。
1965年、小学校時代の同級生とその母親をモデルに「ヨイトマケの唄」を作りました。
この「ヨイトマケの唄」は建築現場で重労働を強いられながらも一生懸命働く母と息子の親子の愛を歌った曲です。
1965年「木島則夫モーニングショー」でこの「ヨイトマケの唄」を歌ったところ大反響が有りました。その歌に感動した視聴者からの電話が鳴りやまず、たくさんの手紙が届たのです。
1966年「ヨイトマケの唄」をレコード販売。それは40万枚を売り上げる大ヒットとなりました。
こうして美輪さんは再び脚光を浴びることとなったのです。
この「ヨイトマケの唄」は時代を超えて愛され、2012年、そして2015年にもNHK紅白歌合戦で「ヨイトマケの唄」を歌い反響を呼びました。
1972年
美輪明宏さんはビブラートの振幅が昔から大きいことが分かりました。但し最近はもっとすごい。ちょっと前、何回か連続して「紅白歌合戦」で何か歌っていたが、真ん中の音程が分からない。 https://t.co/vCCY0WyJIH
— jiro (@JIROABCD) October 20, 2021
2022年現在の美輪明宏
人生はロマン。
自分が不幸だと悩むのではなく
試練を与えられた物語の主人公だと思えば、人生はエンジョイできる美輪明宏 pic.twitter.com/6vBebYElPU
— 生きる希望明言集 (@kotodama5553) March 7, 2022
トレードマークの黄色い髪がとてもよくお似合いです。
美輪明宏さんはこれまでの人生で普通の人が経験しないようなことも経験され酸いも甘いも全部ご存知です。その人間としての深みのようなものが容姿ににじみ出ていると思います。