田村淳の母エピソード 10選!お葬式の秘話や遺言動画に泣き笑い

芸能人

田村淳さん著の『母ちゃんのフラフープ』は発売開始から一週間で重版が即決したというほどの話題の本です。

田村淳さんとお母さんとのお別れのことが自伝のように書いてあるのですが、田村淳さんのお母さんはスゴイ!と思いました。田村淳さんのおかあさんのように生きてそして虹の橋を渡る準備ができたら理想だと思うのですが、なかなかこう潔くは行かないと思いました。

本当に素晴らしいお母さん!

田村淳さんはこんなに素晴らしいお母さんに育てられてお幸せでしたね。

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田村淳の母親 画像

田村淳さんは山口県下関市で育ちました。父親は三菱重工業のクレーンの運転手。母親は看護師。

田村淳さんのご両親は時折TVに出演し、トークが面白くさすが田村淳さんのご両親だな~と思いながら観ていました。

残念なことに田村淳さんのお母さんはまだ72歳というのに虹の橋を渡られました。

 

田村淳さんのおかあさんはこんなに素敵な方ですよ↓田村淳さんの結婚式でエスコート。

 

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田村淳著の「かあちゃんのフラフープ」

田村淳さんは「かあちゃんのフラフープ」という本を出しました。変わった題名だわ、と思ったのですが、これにはわけがあり・・・

田村淳さんは「ITAKOTO」という遺書の動画サービスの研究を慶応大学の大学院で研究をしていました。そして田村淳さんはお母さんに動画を撮ってと託したそうです。すると送られてきたのは、お母さんが背中を向けて永遠と孫のフラフープを回し続ける動画でした。まさかそのような動画をお母さんが送ってくるとは思わなかった田村淳さんさんはとても驚きました。でも、このお母さんの動画は田村淳さんの動画はこうあるべきという固定概念をぶち破ってくれたそうです。

そしてその動画はフラフープを回すお母さんはお父さんと何気ない会話をしていてお父さんの声が入っています。

その動画を見るたび、田村淳さんさんはお父さんのことも思い出して電話をします。お母さんは、お父さんを一人残していくことを大変心配してお父さんをよろしくね、と言っていたそうですが、その動画を見るたび田村淳さんさんはお父さんを思い出して電話などをするので、そこまで計算したかもしれないお母さんはスゴイな、と思っています。

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「母ちゃんのフラフープ」について語る田村淳さん↓

 

田村淳が子供の頃お母さんと遊んだ思い出

田村淳さんのお母さんは陸上部だったので走ることが好きだったそうです。よって、子供の頃の田村淳さんはお母さんとよく一緒に走って遊んだ思い出があります。

田村淳さんはゲームが好きでよくゲームをしていました。お母さんとも一緒にやってみたいと思っていたのですが、お母さんはゲームに反対していたので一緒にゲームをすることができず、それは残念だったみたいです。

そうか~子供はお母さんとゲームをしたいのか・・・と改めて思いました。

 

反抗期の田村淳と母とのバトル

そして少し大きくなって田村淳さんさんが多感な時期に精神的なやり取りをしていたのはお母さんです。反抗期の頃は田村淳さんさんはお父さんとは話をしていません。間接的におかあさんから聞いたかもしれないけれど。停学を食らったとか、何かを決断したとかいう話はお母さんとしているそうです。田村淳さんさんはそのころを振り返って精神的に安心して預けていたと思う、とおっしゃっています。

反抗しながらその気持ちをぶつけられる相手、というのは本当は信頼している人なのですね。

私は母親の立場なので反抗期の男子の相手をしたこともあり、それは大変ですよ~!かなりのエネルギを使います。でもきっと田村淳さんのおかあさんはド~ンと受けとめたんだろうなと思います。

反抗期が終わったのは42歳とお母さんは田村淳さんのことをおしゃったそうです。田村淳さんご自身はそうは思っておらず、もっと早くに反抗期を卒業したと思っていたようですが、お母さんにとっては田村淳さんの反抗期は続いていたのでしょうか。

その42歳という年齢は、お母さんが病気になったとき、そして田村淳さんのお子様が生まれたときでもありました。子供を持って初めて親の有難さを知る、とよく言われますものね。

田村淳さんはお母さんが病気をしてお母さんに優しくなったと言っています。

 

お母さんから田村淳に届く小包に入っていたもの

田村淳さんは18歳で山口から東京に出てきて以来お母さんはことあるごとに小包を田村淳さんに贈ってくれました。

その小包にはお母さんの手紙が添えてあったり、少額の、1000円とか2000円とかのお小遣いが入っていたそうです。そして田村淳さんはその小包を受け取ってお母さんの温かさを感じていました。

ところが当時は照れくささもあってかお母さんにきちんとお礼を言えずにいるとお母さんは「荷物を送ってもらえることを当然と思うなよ」と一言。

今思うとちゃんとお礼の言葉を伝えていれば良かったと田村淳さんは思っているかもしれませんね。

私も結婚して独立してから時折実家から荷物が届きました。こちらでも買えるようなものなのですが、やはりそこには親の愛が詰まっていたのだと、今はもう荷物が届かなくなってからしみじみと思います。

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田村淳の母の「乙女の会」

田村淳さんのお母さんは50歳を過ぎて「乙女の会」というお友達グループを作っていてこの「乙女の会」のメンバーで旅行に行ったりしていました。50歳を過ぎてのグループが「乙女の会」というネーミングが面白いですよね!最高です!これは私の勝手な想像ですが「乙女の会」というネーミングは、田村淳さんのお母さんだと思います(笑)。

その「乙女の会」の旅行で東京に来た時、観光スポットの一つに田村淳さんのマンションに行く、というのがあったそうです。

田村淳さんは自分が見ていない母親はどんな人物なのか知りたくて、お母さんが席を外したときに「乙女の会」のお母さんのお友達に聞いてみました。「俺のお母さんってどんなひとなんですか」

お母さんは「他人を優先する人」で大変気遣いのある人。旅行の予定を立てるときの周りの人が行きたい、といったところを予定に入れて自分が行きたいところは入れない人、とその時お友達から教えてもらいました。TVとかに出演するときは明るくトークも上手なので、わ~と前に出ていくタイプのように見えるけれど、実は違うタイプだったようです。

田村淳さんの部屋を観光スポットに入れたのも、お母さんが望んだことではなく、他の人が「行きたいね」と言っていたのを覚えていて、予定に入れたそうです。気遣いの人なんですね。

そして田村淳さんの奥様がまさにこの「他人を優先する人」で、田村淳さんのおかあさんとよく似ているそうです。素晴らしい!

 

田村淳のお母さんのやりたいことノート

田村淳さんのお母さんが病を得てから「やりたいことノート」を書きました。そのノートの書かれたい一つに「屋形船でお世話になった人をもてなす」というのがあり、田村淳さんがそのやりたいことを叶えてあげたそうです。その時は屋形船を仕立てて50人ほどご招待したそうです。

田村淳さんは素晴らしい親孝行をしましたね。

お母さんが虹の橋を渡られる2ヶ月前に、お母さん、お父さん、田村淳さん、弟さんの4人で下関に有る天ぷら屋さんでお食事をしました。元の家族4人水いらずで食事をできたのは良かったとおっしゃっています。

これが最後かもしれないと思うと食事なり旅行なりとても思いがつのり、一瞬一瞬が愛おしく大切な時間に感じます。私も母がいよいよ施設に入るという前の旅行は本当に切ないけれども大切な時間を過ごせたことを思い出します。そして今は父を訪ねますが、行く都度それは大切な時間だと認識して過ごします。

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お別れしてからの田村淳さんとお母さんの会話

田村淳さんはお母さんとお別れした後、ご自身の部屋にお母さんの写真を置いていて何気ない日常のことをお母さんに話しかけています。それは旅行に行ったときの話よりも、何気ない日常の会話をお母さんが喜んでいたから、今もそうしているそうです。

その話しかける回数は、おかあさんの生前よりも多い、と田村淳さんはおっしゃっています。お別れしてからも近くに存在を感じられるというのはとても幸せなことですね。

田村淳のお母さんが田村淳に残した言葉

田村淳さんのお母さんが田村淳さんに残した言葉は沢山ありますが、事あるごとに言っていたのは

・他人に迷惑をかけるな。
・やりたいことをやりなさい。
・誰かに遠慮しない。

ということでした。よその子と自分の子を比べるということは絶対にしなかったので田村淳さんご自身も人と自分を比較することは無かったと言います。お母さんは、そんなことよりも、それが本当に自分のしたいことなのか?ということはしつこく言っていたそうです。

そしてお母さんと最後に交わした会話で

あんたが息子で良かった

という言葉は弟さんも言われ、それは本当に嬉しかったそうです。聞いているこちらが涙が出ます💦

 

選抜メンバー!?

田村淳さんのお母さんは自らの別れの会の参列者をご自身で指定して次のように田村淳さんに言ったそうです。

「コロナやけぇお葬式は限られた人12人だけにしてよ!」

「メンバーは私が選んだけぇ守ってね」

そのメンバーの中に田村淳さんの妻や子どもたちの名前はなかったそうです。

それは田村淳さんの奥様が出産を終えて間もなく、お子様も小さいためコロナ禍の危険性と長旅の疲れを心配したようで

「最期の誕生日にみんなで集まれたけぇ葬儀は来んでええよ」

「私は死んでも怒らんけぇ、東京にいてね」

とおっっしゃっていました。

最後まで他人を優先する方でしたね。

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田村淳のお父さんは?

若き日のお父さんと田村淳さん↓

 

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田村淳さんは残されたお父さんのことも心配をしていて、関西に住む弟さんか、東京の田村淳さんかどちらかの近くに引き取るのが良いのではないかと話していました。ところがお父さんはお母さんと暮らした家を出たくないというので、しばらくをお父さんの意思を尊重しようと考えています。

田村淳さんのこのご両親を思う気持ちは本当に素晴らしく、私が感動したのは、東京にいる田村淳さんはコロナ禍ということもあり、お母さんが闘病をしていても頻繁に帰省ができないので、講じた策です。

そこで地元に残る田村淳さんのお友達に声を掛け実家を訪れてご両親の様子をみてくれるように頼んで、実際お友達はかわるがわる田村淳さんのお母さんを訪ねたりしてくれたそうです。きっと今は田村淳さんのお父さんをお友達が訪ねているのではないでしょうか。

自分にそれを置き換えたとき、私にはそのような友達が何人いるだろうか?と思い、田村淳さんの人望の厚さに驚きました。

 

まとめ

田村淳さん著「母ちゃんのフラフープ」には田村淳さんのお母さんのエピソードが沢山ちりばめられています。虹の橋を渡る前にご自身のタンスの中は空っぽにし、お別れの会のお弁当の手配や選曲までして本当に見事だと思いました。田村淳さんもそんなお母さんをかっこいいと感じています。

私は「母ちゃんのフラフープ」を知ってから、田村淳さんのファンになりました!

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